河内八尾城趾
The ruins of the Yao castle
八尾神社境内に建つ八尾城趾の石碑です。聞いた話しでは、この神社のあたりが主郭だったとの事です。素人には見た目にも遺構などはもちろんわからないのですが、専門家にとっても八尾城の詳しい事は、若江城と同様にわからないようです。どちらも今となってはすっかり宅地化されてしまい、その形跡も殆どわかりません。
専門書によると、1337年(建武4)の古文書に八尾城攻めが登場していることから、築城はさらに遡ると推定されているようです。更に創築者は、石清水八幡宮の所領を管理した別当兼幸とも想定されています。また、本願寺の日記に寺内の久宝寺と八尾の事がよく記録に登場し、その関連から八尾氏の事も記されています。八尾城と関連しているのかもしれません。
戦国時代に入ると河内国においては、高屋城(現大阪府羽曳野市)・若江城(現同東大阪市)・飯盛山城(現同四条畷市)が南北の要となって、八尾城については、史料に現れないようです。
しかし、1582年(天正9)のイエズス会宣教師ルイス・フロイスの書簡にとガスパル・クエリョの年報には、1582年2月には既に若江に城は無く、同時に池田教正は八尾に居城していたとあります。続けて、「この城は新しく、仮の聖堂が2箇所ある。」と記録されています。
この八尾に居城した池田丹後守教正は、摂津池田氏の一族と考えられ、キリシタン武将としても有名でした。また、茶の湯にも長けていてその双方に、ある時期には頻繁に彼の名が登場しています。
彼の事は、異国のキリシタン達の耳には「イケピタフンゴノカミ」と聞こえたようで、そのように記録されています。
非常に興味深い人物ですが、八尾の池田氏と摂津池田氏との関係は、今の所わかりません。
池田教正は、戦国の難局を乗切り豊臣の世にも生き、長久手の合戦の後、美濃に移っていったようです。その最後は、諸説あありわからないようです。秀次事件の時殉死とか、長久手の合戦の後池田輝政に御抱えになったとあります。
また、1565年(永禄8)の将軍足利義輝邸襲撃の時、三好三人衆や松永久秀と共に参加し、将軍を殺害したのは彼の息子だったといいます。
八尾という地は池田と関係なさそうですが、歴史を辿ると結構つながりの深い土地なのです。他にも色々あるらしく、地道に調べようと思います。
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