摂津越水城跡
The remains of the Koshimizu castle
現在は兵庫県西宮市桜谷町となっている地に、初めて城が築かれたのは1520年(永正16)頃で、築いたのは瓦林政頼とされています。またこの付近は、「小清水」と記され良質の水が湧き出ていました。今も3つの井戸があり、その名残りを感じさせてくれます。この地の北側に横たわる六甲山系から、海に向かって行く筋も水脈が走り、また、川となって南へ向かっています。酒所として有名な西宮の造り酒屋はこの南、1〜2キロ付近に集中しています。宮水発祥の地もそこにはあります。
ちょっと話題が逸れましたが、城や生活には欠かせない水の豊富な地域でもあった事がこの事例を見ても十分に理解できると思います。また、この越水城のあった場所は、西国街道から近い場所でもあり、要衝でもありました。この場所に瓦林政頼は城を築いたのです。
瓦林正頼記などによるとその築城の様子も知る事ができ、読み進めるとその城下に家臣を住まわせていた事が伺えます。更に、越水城から東へ3キロ(1里弱)程の所(現西宮市日野町)にも瓦林城があり、相互に何らかの関係を持っていたようで、織田信長の頃まで続いていた可能性も指摘されています。
そんな越水城は、地理的・軍事的(他にも様々な要素が絡んでいますが)に、戦国時代には大変重要な場所でもありました。戦乱の世には時の権力者により、重要視されて利用されますが、歴史は次第に日本統一の方向へ向かいます。その過程にあって越水城は、江戸時代に向かうにつれてその重要度が低下して行きます。
それまでには、何度も落城と復興を繰り返しますが、織田信長が摂津に入る直前まで、一時、三好長慶の本拠地ともなっていました。その長慶の代に越水城は、最も大きな城域を持ったと推測されています。
長慶は文化的な理解が深く、この城で連歌会などをしばしば開いていたようです。その連歌会には摂津池田氏の一族も少なからず参加しており、その密接な関係と文化的なつながりを知る事ができます。
参考:日本城郭大系12、戦国三好一族、西宮市史、日本城郭全集10
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