摂津池田家の軍奉行?
About the sub commander in the Ikeda family.
まだ研究途上のようですが、中世の畿内大名や国人について、また、摂津池田家についてもわからない事がたくさんあります。
しかし、当時の記録としての古文書を読むと断片的になのですが、色々と気になる語句が出てきます。
摂津池田家の当主(総領・城主)は代々「筑後守」を任官しており、政治的・軍事的な重要局面では、記録上から「池田筑後」の文字を見つける事ができます。
また、もっと記録を注意深く見ると、池田筑後守以外にも池田出羽守・同伊豆守・同兵庫・同紀伊守・同播磨守・同遠江守・同山城守・同丹後守・同伊賀守・同和泉守などの官称名も見つける事ができます。
これらの各々の関係や役割などは、わからない部分も多いですが、中でも池田出羽守・同兵庫については、合戦についての記録によく登場しているように見えます。
この池田出羽守・同兵庫は、その池田家の中でも特に軍事的な事に長け、池田家の総領(筑後守)に代って、名代的立場も勤め得る人物だったのではないかと個人的に考えています。
記録では出羽守について、1552年(天文21)4月25日、1559年(永禄2)7月22日の事として現れています。特に後者では、池田出羽守が細川氏綱方三好長慶と共に従軍した河内畠山高政方との戦いで、大将遊佐三郎左衛門以下二十一名の主だった武将を討ち取り、最終的には、三十三名を討つ戦果を上げています。
また、池田兵庫の名も1560年(永禄3)8月14日、河内堀溝合戦の記録など、数度、当時の史料中に見られます。
これらは、重複や誤記の可能性もあるのですが、色々と見て行くと、池田出羽守や池田兵庫という人物は、時に池田筑後守の名代を勤める程の実力者で、この永禄2・3年の記録は正に、池田家総領(筑後守)を代行した軍奉行を務めた時のものだったと思われます。
摂津池田家の構成については、まだよくわからない点が多くありますが、その家の繁栄の過程で、こういった組織の役割分担も行われていたと推定しています。
※写真は関ヶ原ウォーランドで撮影したもので、イメージ画像です。
参考:言継卿記4、信長記上、織田信長文書の研究上、大阪府史、
兵庫県史、川西市史、伊丹史料叢書2(中世史料)、
戦国歴代細川氏の研究、戦国合戦大事典6、戦国武家事典、
足利義昭、朝倉義景、明智光秀、三好長慶、戦国三好一族など
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