1595年(文禄4)、豊臣秀吉は久安寺(現大阪府池田市)の塔中常住院で観月の茶会を催してこの時池田炭を賞用したと記録があったそうです。この記録は惜しくも戦災で焼失してしまいました。久安寺には朝廷に献上する時、炭箱に立てたといわれる「献上御用」と書かれた木札が保存されています。同寺では1145年(久安元)から1870年(明治3)まで宮中の御茶用として池田炭の献上をし続けていました。また、茶の湯が広く普及する室町時代末期頃には、茶の湯には最高の炭と指定され、多くの著名な茶人に愛用されました。
その産地は、豊能郡(とよのぐん)・川辺郡(かわべぐん)などいわゆる、「池田の奥郷」にあたる地域で主に生産されていました。(現在でも数は少ないながら生産は続けられていますが、生産者の高齢化と後継者不足といった問題があるそうです)池田炭の材料にはクヌギを用います。
また、生産するには大量のクヌギ材を必要として乱伐採がされていたように思いがちですが、この樹種は元株が残っていれば何度でも生えてくる木なので乱伐どころか何度でも再生して使っていたのです。炭には7〜8年経った木が使われますが、地域を予め区切ってローテーションさせて伐採していました。そうして作られた炭は池田で集散されていたために「池田炭」の名で知られるようになりました。池田炭の切り口は菊の花のように美しい事から「菊炭」「切炭」とも呼ばれています。
池田炭がその形の美しさ故に茶人に賞用されたことは既に触れましたが、他に火力が強くて火持ちが良いこと、香りが優れていることも「茶の湯には最高の炭」と言われた訳があったようです。また、茶席での演出効果を高めるために炭を使う側も工夫を凝らしたので、炭本来の味が更に引き出されていったようです。千利休の時代頃からその工夫がされ始めていたようで、炭をそのまま使うと炭屑がはぜるので、上皮が白くなる程度に焼いて消したものを茶席用として使っていたようです。
その他「茶譜」(著者・著作年代不詳)では、千利休以後古田織部の時代には、池田炭を水で洗って4〜5日乾かして使っていたそうです。そうする事で更に香りが良くなり、手も汚れずに火力も強くなると記されています。一部ではそれに香料をいれて使っていた大名などもいたようです。
このように茶席では炭にも大変な関心が寄せられていたために出荷(製造)する側も大変な気の使いようで、「切り口が美しく見えるように」とか「表皮が剥がれないように」など、切りかたには大変な注意を払っていたようです。また、切った後の切粉が中に残らないように、一つずつ切り口に板を当て、叩いて切粉を払い落としていました。最上級と賞されるが故の気の使いようです。
時代は下って明治時代になると炭の需要は一般家庭にも行き渡るようになります。次第に池田炭の生産地では、雑炭などの生産で賑わいを見せはじめます。1880年(明治13)には明治維新前と比べて窯数は倍になり生産量も倍になります。1901年(明治34)をピークにその後多少窯数と生産量は減少しますが、生産額(売り上げ)は上がります。
しかし、大正期には新エネルギーの普及に伴なって割高な池田炭を求める人も次第に減り、特に第二次世界大戦中や戦後の物価統制令は池田炭に致命傷を負わせます。他の安価な炭と同様に提供させられる事を余儀なくされ、伝統や知名度は失われていきました。
近年では、新エネルギーの登場によって、日常生活で炭を使うという事は殆どなくなってしまい、炭の生産も減少の一途をたどっています。
しかし、池田炭は現在も茶席などでは根強い人気が有り、日本各地へ送られています。また、かつての炭生産地では数件ずつですが、生産を続けています。生産者の方々にお話を伺うと、後継者がいないので今後が危惧されるとのことでした。なんとか伝統を受け継いで次の世代にバトンタッチしてほしいものです。
また、池田旧市街(MAP B-3)の新町にある「蔵田燃料店」他、市内いくつかの燃料店で見かけますが、今では池田炭を扱う店も少なくなっています。
|