ページナビゲーション:呉江舎
ページナビゲーション:呉江舎
ボタン:ホームへ ボタン:わが街池田 ボタン:五月山 ボタン:池田の観光 ボタン:池田の特産 ボタン:池田の町並
ボタン:ぶらっとええとこ ボタン:企画予定コンテンツ ボタン:アクセス池田 ボタン:リンク ボタン:訪問者筆記帳
ボタン:池田酒
ボタン:池田炭
ボタン:池田の植木
ボタン:ホーム
バナー:親愛なる池田市様
ページタイトル:池田の特産(池田酒)

絵:酒宴の錦絵酒は池田を代表する商品の一つです。池田の西には水量豊富な猪名川があって、酒造には適しています。現在も池田で製造されている「呉春」は全国的にも知名度が有ります。他に「緑一」といった銘柄の酒もあって、現在でも酒造は盛んに行われています。池田に産業としての酒造業が始まるのは、1467〜1469年(応仁年間)頃、猪名川西岸(現兵庫県川西市)にあった万願寺村から池田村に移って酒造を始めた「万願寺屋」に始まると言われています。戦国時代頃には日本各地に城下町が形成されて、商工業者の誘致策がとられました。池田でも池田氏が城下町を形成し発展します。また、同地は多くの街道が交差する要衝でもあったため、早くから「物資集散地」として町が発展し、「都市産業」としての酒造業も発展していました。

 江戸時代になって特に、池田産の酒が全国的に知られるようになったのは、それ独自の風味もありますが、池田で筆頭酒造家だった「万願寺屋」の政治的手腕によるところも大きかったようです。1614年(慶長19)大坂冬の陣に際して徳川家康出兵の折り、現奈良県生駒市付近の闇峠(くらがりとうげ)で布陣中の家康を万願寺屋九郎右衛門は、村役人等めぼしい者数名と共に軍資金と兵糧、それに自家の酒を献上します。その後、家康から返礼と共に江戸での酒販売の「朱印状」と「養命酒」という酒銘が下賜されます。
 これを機に池田での酒造業は益々盛んとなり、元禄時代には最盛期を迎えます。あの赤穂浪士も江戸で池田酒を嗜んでいたのかもしれません。池田の酒造は万願寺屋を筆頭に一大産業となって、最盛期の酒造家数は38を数えるまでになります。
 また、池田酒はその「風味」が受け、引く手数多の銘酒として江戸市民の寵愛を受けます。池田の酒造家にとって更に幸運だったのは、当時幕府は酒造に対する一つの政策をとっていました。酒造に関して農民による在々での酒造を禁止して、「城下町」や「宿場町」、特定の「在郷町」に限定した政策をとっていました。そのため池田村は北摂地域で朱印状の恩恵を余すところなく受ける事となりました。また、最初に「風味」について触れましたが、江戸時代には、泰平が続き民衆の味覚が更に辛口の酒を求めるようになっていました。
 池田では水質の関係もあって、当時既存の酒よりも更に辛口の酒を造る事が可能だったので、池田酒の味は江戸で高級酒としても名前が知られていました。

池田の酒造家が使用した紋 池田郷の酒造家は万願寺屋以外にも大和屋・菊屋・清水屋・鍵屋と次々と増えて1702年(元禄15)の「摂泉和三州酒造米高帳」によれば、池田の酒の総生産は11,233石まで達して伊丹の総生産高の970石を遥かに上回っています。池田で最高の醸造高を誇っていた万願寺屋だけで1035石と一家で伊丹の総生産高を酒蔵跡凌いでいました。当時、その万願寺屋の屋敷は広大なもので、公家の遊戯であるけまりを行なう「まり場」まで備えた豪奢な屋敷を所有していました。
 当時の酒造家(酒家)の分布は現栄本町付近に集中していて、万願寺屋や大和屋もその地に有りました。現在の「池田職業安定所」付近にあたります。また、酒問屋もこの辺りに集中していました。

 さて、元禄期の江戸の人口は60〜70万人に達していたと推定され、大消費地を形成していましたが、それに見合う諸産業の発達が江戸では遅れていました。人口の半数以上は非生産者である「武士階級」で残りの半数以上も「職人」や「商人」などの製造とは違う階級だったため必要物資の供給は全国から受けていました。それらの物資は一旦大坂に集められて江戸に運ばれる事になっていました。
 大坂の「天下の台所」とはこの事情から出た言葉です。全国の商品の集散地である大坂に池田酒は送られ、その後「菱垣廻船(樽廻船)」によって江戸に送られて行きました。

 池田酒が江戸でもてはやされたのは、その風味にありました。もちろん技術的な要素もありますが、猪名川水系の水を使って醸造すると、辛口の酒ができました。
 それに対して、それ以前に既に有名であった「奈良・京都酒」「河内金剛寺酒」「近江百済寺酒」などは、どちらかというと、いわゆる甘口の酒でした。しかし、世が泰平になると共に辛口の酒が好まれるようになりました。更に時代が進むと、更に辛口の味が好まれるようになり、「灘」や「西宮」の酒が注目されるようになります。幕末頃、「灘酒」の江戸送りのシェアは、68.8パーセント、「西宮酒」は16.6パーセントとこの二個所で生産される酒が、日本の酒をほぼ独占していました。池田も含め酒造地はどこも品質と技術などあらゆる面で努力していたのですが、時代背景による好みとそれに見合う数量を賄えるのは、灘や西宮が最適の地だったようです。

 水質から恩恵を受けた辛口が受けた池田酒でしたが、灘や西宮でも事情は同じでした。池田を流れる猪名川の上流は溶存鉱物質が少なく、酸素を多く含む性質を持ちます。また、流れが中ほどからよく風化の進んだ古生層を通り抜けて池田・伊丹へと流れます。
 この水でつくった酒が京都・奈良でつくった酒よりも辛い味になったのです。一方、灘では、火山岩でできた六甲山系から流れ出てすぐ海に注ぐ水が、池田・伊丹よりさらに辛口の酒を生みました。また、灘方面の水系は水量も豊富でふんだんに水を使った製造方法をとることができました。
 更に、灘は特に輸送面で有利な海浜部にあった事から、輸送コストを下げると共に、保存料を使わないこの時代、酒を腐らせずに早く江戸へ廻送できたのは成功条件の大きな要因だったようです。

 池田の話しに戻ります。1774年(安永3)万願寺屋と大和屋との間に借金300両(現在の価値にすると2400万円〜3000万円程)の返済を巡って争いが起きます。そして更に話しが発展して、朱印状の下附先が万願寺屋の独占的特権か、池田村全体の特権かという争点に至ります。
 2年後にその判決が下され、ついに万願寺屋の借財返済と朱印状没収が言い渡されます。池田での朱印状没収のショックは相当なものだったようです。

吉田酒造 その後やはり酒造業が振るわなくなります。池田は全国と比べても技術的な遅れはとらなくても、時代背景的に更に辛口の酒が好まれるようになっていた事と、水質や原料による違いからくる限界があったようです。また、池田は輸送面でも難があり、伊丹や灘・西宮に比べると内陸に位置していたことがコストと輸送時間の増大につながってしまいました。
 池田酒の品質が他より群を抜いて優れていた時代には、このような状況からくるリスクはあまり気にされていませんでしたが、時代が変わるとそういう訳にもいかなくなり、池田では全ての条件が悪い方に展開して行きました。ここに至り、もはや往時の繁栄を回復する事なく酒造業は衰退していきました。

 しかし、一方で池田酒の可能性を活かした別の動きもあったようです。江戸時代の始め頃、池田酒の製造方法を各地に伝える事で更なる拡大を目指した動きがあったようです。
 現在の岩手県盛岡市地域である南部地方に杜氏が派遣され、技術指導などを行っていたようです。この事は、南部地域の酒造業者が今もその伝承を守り、南部酒の伝統を受け継ぎ発展させています。
 これは、池田の酒造家にとっては株分けのようなカタチを取って、今で言う業務提携だったのかもしれません。また、南部地域の酒造家にとっても先進地域の技術を取り入れる事で、商品価値も上がり、地元での販売力強化にもなります。既に江戸では池田酒の評判も定着しており、こういった動きを機敏に捉えていました。
 そして、双方のニーズが一致し、利益の交換が成ったわけですが、その間を取り持ったのが近江商人だったようです。
 ちょっと余談ですが、東北地方には近畿の人々が移り住んだ歴史もあるようです。関ヶ原の合戦の時、負けた西軍の武将が関西から遠く東北地域にも逃れ、あの石田三成に系譜を持つと伝わる家系もあるようです。何かにつけて、その当時は先進的な、また、人脈を持つ関西方面からの人物を匿う事は、東北地域の人々の中には、将来への投資と考えたのかもしれません。
 時代的にも江戸時代の元禄年間頃、戦国時代で荒れた国土の復興が盛んとなり、様々な分野で立て直しがなされ、産業も盛んとなっていきました。国土の復興とでもいうべき、勢いのある時代でもありました。
 そういった時代背景、また因果もあってか、時を経た江戸時代に、近畿に属する池田から遠い南部地方と縁を持ち、酒造家同士と商人のビジネス交流が企画されたようです。
 南部杜氏伝承館

 そして現在の池田では、旧市街(MAP B-3)新町に、吉田酒造 株(緑一)や綾羽に呉春株式会社(銘柄:呉春)と二軒の造り酒屋が残っています。
 「呉春」銘柄については、近畿内の枠を超えて全国的に有名な酒を送り出しています。これからも古き良き伝統を受け継いで銘酒をつくり続けてほしいものです。

 吉田酒造株式会社の公式サイト(お酒も買えます)

▲ページのトップへ


呉江舎について個人情報の取扱い免責事項│ 


バナー:ホームページ制作の池田屋 当サイトは、ホームページ制作の池田屋が、
管理・運営致しております。
Copyright (C ) Ikedaya All Rights Reserved.