摂津池田家の動員兵力
The mobilization an army of Ikeda family.
実質上最後の摂津池田城主(総領)となった池田筑後守勝正が、動員できたのは三千〜四千程の兵だったようです。
1570年(永禄13・元気元)4月20日、新将軍足利義昭への非礼(将軍からの上洛要請し従わなかった)があったとして、織田信長が中心となった朝倉義景討伐軍三万余が越前へ発ちました。
この中に、勝正率いる部隊が約三千名で従軍していたと、言継卿記に登場しています。特に目立っていたのか、池田衆の事が記録されています。
また、時間を遡って、1566年(永禄9)5月24日、三好長慶亡き後の三好三人衆と松永久秀との争いでは、三人衆方軍勢の主力を成す程の動員を勝正はかけていたようです。
この時、三好三人衆方は一万五千程だったと記録されています。勝正の軍勢はその中にあって具体的にどれ程だったのかはわかりませんが、やはり三千〜四千だったのだろうと思います。
まもなく勝正は、この後に大和へ出陣し、松永久秀を追いました。大和へ入ると直ぐに鉄砲戦が始まり、勝正は三好政康とともに行動していたようです。記録ではその数を七千〜八千としています。
記録を見て行くと、摂津池田家の代(城主・総領)が替わる毎に経済力もつき、その動員兵力も増やしている事がわかります。
最終的に池田家の全盛期(勝正の頃)では平均して三千〜四千の兵を動員できる力を持っていたいと推定でき、これを江戸時代の軍役から見れば十二万石〜十六万石相当の大名に当てはまるようにも思います。
但し、この当時は領内の人民を徴発するのが主(もちろん、在地の人材もあった)ではなく、必要に応じて兵を雇用していたようです。これは早くから貨幣経済の発達した近畿では一般化していた事のようです。
ですので、池田家中にはそういった雇い兵(傭兵)を指揮する家臣が居たくらいで、常時多数の兵を抱えていたわけではないようです。
※写真は福知山城内の展示物を撮影したもので、イメージ画像です。
参考:言継卿記4、信長記上、織田信長文書の研究上、大阪府史、兵庫県史、
川西市史、伊丹史料叢書2(中世史料)、戦国歴代細川氏の研究、
戦国合戦大事典6、戦国武家事典、足利義昭、朝倉義景、明智光秀、
三好長慶、戦国三好一族など
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