福知山城跡
The remains of the hukuchiyama castle
天正の乱(荒木村重の謀反)直後に池田氏の家臣が1601年(慶長6)までに隠棲先の福知山から戻り「初テ商賣トナレリ」と記録されています。記録されていたのは山川氏で、同氏は池田で後に、大和屋という酒造家となり、代表的な存在となります。幕末には山川正宣という人物が池田村取締役に指定される程になっていました。
山川氏は、森道(通)久という池田氏の家臣だったようですが、訳あって母方(丹波住人山川伊兵衛の娘)の山川氏を名乗るようになったとあります。この森氏は池田筑後守久宗の家臣だったとの云いつたえもありますが、検証は今の所できていません。
しかし、この説はあり得る事でもあります。それから、道久の「久」は久宗との繋がりを感じさせる「久」つながりと考えるのは無謀でしょうか?これは個人的な想像です。
更に、1508年(永正5)5月、当主池田貞正が自刃し、その子久宗(三郎五郎)は三田(現兵庫県三田市)へ落ち延びます。この久宗は後に池田へ返り咲き当主となるのですが、池田氏は事ある毎に三田方面の有馬氏を頼っているようなのです。池田氏は古くから、湯山(有馬温泉で有名なところ)に影響力を持っていたので、その関係からかも知れませんが、池田氏の歴史を見ていくと有馬氏とは浅くない関係を感じます。
また、この有馬氏は、1600年(慶長5)頃に福知山城を拠点に一帯を知行している事から、冒頭に紹介しました山川氏が隠棲先の福知山から戻り...というのは、その繋がりをも感じさせるものでもあります。
いずれにしても山川氏は、池田に戻って商人として再出発し、成功したようです。池田の旧市街地の中心部はこのように、戦乱が治まった頃に再び池田家の元家臣が戻って町を造った地域でもあります。何気ない旧市街ですが、中々興味深い成り立ちを持った地域でもるのです。
池田の町並みについてはこちらです。
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