戦国末期の豪族の家
The last period of 16th cencury's baronal family house .
なんと戦国時代末期に建てられた地方豪族の家屋が今も残っています。場所は福井県坂井郡丸岡で、こういった史蹟は、全国的にも珍しいとの事です。この家主の坪川家は、源三位頼政の末裔といわれ、七百年前にこの地に定住したようです。周辺集落を治める七名の筆頭として高い格式を持つ家柄でした。近代になって町村編成が変わるまでは、代々村長を勤めたとの事です。勿論、この坪川家住宅(千古の家)は1966年(昭和41)6月に国指定の重要文化財になっています。
戦国末期には、こんな感じで豪族が生活していたのだろうかと思うと、色んな想像をさせてくれる貴重な史蹟でした。場所柄、寒くて雪深いところですから、多少摂津あたりの豪族の家屋様式とは異なるかも知れませんが、摂津も北側は寒く共通点があるかも知れません。
平安時代末期から武士の世となって以来、日本各地に豪族や豪農といった有力者が、日本史上に登場しはじめます。例に漏れず、摂津池田氏もこういった豪族などの地域有力者からのスタートだったようです。もっとも池田氏などの畿内平野部の豪族(国人)は、場所柄、京都などの影響で盛衰を繰り返しながら、日本史上の先端を走る事になるようです。それからこれはまだはっきりとはしていないようですが、池田氏の場合、今の池田市南部を走っていた西国街道沿いに威勢を誇っていた豊島冠者という武力集団だったようです。時代的には平安時代末期頃です。これとて今の所、豪族というか地域有力者という位置付けです。
池田氏はどんな過程を経てきたのかまだはっきりはしていないものの、やはりそのスタートは、小さな豪族のようなものから摂津の代表的国人に成長していったという想像は、自然な流れだろうと思います。
さて、戦国時代末期と言えば、織田信長に代表される割拠する地域を全国統一に向けて疾駆したという日本史上でも有名な時代ですが、やはり戦国時代にも体制ピラミッドの頂点を支えるその下には、やはりこのような豪族が居たと言う事を意識すると、歴史もまた違った観点に辿り着くのではないでしょうか?
その戦国時代末期に、摂津池田家は将軍足利義昭を奉じた尾張の戦国大名、織田信長に攻められて後、隷属化して、独立国人としての幕を引きます。しかし織田氏よりは規模が小さいとはいえ、地域の有力者として、池田氏独自の体制があり、当然こういった地方豪族を傘下に従えていた筈です。食物連鎖のように、摂理として大が小を食べる図式が出来上がっていたと思います。
これは私的な想像ですが、池田城近くにはその一族が各々館などを持って担当地域(所領など)を治めていたようで、連係した施設として、また連絡網などのシステムとして当然この写真のような豪族の家が池田城の近辺に存在していたと思います。また逆に、独自の勢力を持つ豪族の屋敷も様々な所にあったろうと思います。
池田氏自身も全国的な日本史上から見れば、名前も出ない小さな構成要素でしかありませんが、そのまた小さな構成要素として、地域の有力者や豪族が、それを支えていたと言う事も考えてみると面白いかもしれません。そんな視点で見れば、実は自分の近くに全国に繋がる穴場があった、なんて事も十分あり得ると思います。個人的には、こういったフラクタル理論的な事が大切だと考えています。
財団法人 坪川住宅保存会
http://www.jeims.co.jp/senkoie/
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