この熊川は、時折紹介されているようですが、まださほど有名ではなく、街自体も観光化に向けて整備中といったところです。熊川へは、大阪府池田市から国道173・477号線と367号線等で向かいました。片道100キロ程の道のりですが、山間の道を進むため3時間程かかります。
367号線と477号線の一部は塩鯖街道が国道になっていて、所々で昔の面影をのぞかせます。また477号線は池田から八木町に入って北上すると間もなく、鬱蒼と茂る杉林の中を細い国道が山を縫うように走ります。ちなみに、400番代の国道はこのように狭く険しい道が多いとの事です。ですので、大型の車の通行は困難(軽四輪でもいっぱいの感じ)です。ちょっと地図を見る時に注意されてはどうでしょうか?
さて、本題に戻ります。国道なのにその道の途中、暫くは人家がなく、行けども行けども山が続きます。しかし、時折視界が開けて、見える景色は眺望がすばらしいのです。思わず立ち止まって深呼吸がしたくなるような絶景です。近畿にもまだこんなに山深い所があるのかと思うほどです。
そして途中、京北町寺山地区には、九重桜で有名な門跡寺院常照皇寺(大変有名らしいです、後で知りました)があります。ここはほんとに静かで、落ち付いていて、すばらしい所でした。建物もさすがは門跡寺院とあって、重厚で気品があり、勅使門まであります。ここは、何も言う事なく素晴らしいです!当然、見ごたえも十分です。
さらに進むと花背という峠の町に出ます。このあたりは、スキー場もある程寒い所ですし、急な坂が長距離続くので冬期間は通行が困難となります。花背は塩鯖街道から分岐した道を進む(北から南下の場合)道になり、途中国道を別れて、京都の鞍馬方面から洛中に入るルートとなっています。この花背も静かで小さな集落が点々とあります。ちょっと一息のため、周辺を散歩すると、若い夫婦に出会いました。聞けば、京都市内から古い空家を買って移り住んで、有機農業をされてるとの事でした。少し村の事などをお聞きして別れました。新しい人が移り住んだり、何かと面白い動きがある事をおっしゃっていました。
少しの休憩の後、花背の峠を下ると、367号線に出ます。温泉やゴルフ場のある朽木村、保坂(分岐点の角に鯖の煮付けを食べれる店があります)を経て、熊川宿に到着します。
興味あるところばかりですので、気が散って仕方ないのですが、熊川宿の前に朽木村の事を少し書きますと、ここは塩鯖街道の宿場町として発展もしましたが、有名なのは戦国時代に織田信長が越前の朝倉を攻めのエピソードを持ちます。信長が出陣中、背後の同盟者である浅井氏が朝倉氏と誼を通じる事になり、織田勢にとっては挟み撃ちのようなカタチとなりました。信長は、この報に接し、熟慮の結果、退却を決めました。そして先発として信長一行は、僅かな手勢を引き連れて京都へ出発します。この時、塩鯖街道を退却し、朽木の豪族朽木氏の協力を得て事なきを得たのでした。この時、朽木氏は独立した勢力(村や集落の利益や自衛のため)で、織田勢に荷担するかどうかは微妙な情勢だったと言われています。
ちなみに摂津池田の勝正は、この時、死亡率の高いシンガリ軍を買って出た羽柴秀吉の陣営に属していたようで、越前金ヶ崎城に入っていたと、武家雲戔という記録にあります。
また、この時代よりも前、応仁の乱の時、京都が焼け野原となってもまだ、戦いは止まず、落胆した時の将軍足利氏(何代目か忘れました)が、この地で隠棲したということです。その跡が旧秀隣寺(しゅうりんじ)庭園です。残っている面積は大きくはありませんが、さすが将軍の庭で気品あふれるすばらしい作庭です。独断と偏見でオススメします!また、近くには、江戸時代の朽木氏陣屋跡もあります。
ああ、目的地に行くまで、寄り道をし過ぎた感もありますが、ご容赦下さい。さて、いよいよ熊川に入ります。熊川は現在、福井県上中町熊川地区となっていてその中心的な町ではありませんが、かつては小浜藩指定の宿場町として周辺地域を束ねて中心的役割を果たしていました。また、熊川は、分水嶺でここで琵琶湖側と日本海側に水の流れが変わる重要な土地でもありました。昔の大量輸送と言えば船なので、こういう自然の摂理を利用できる土地は特に重要視されました。
泰平の世になってからも、下の京極氏(だったかな?)の領地に飢饉が起きた時に備え、備蓄米がここへ常に2万石(だったかな?)を備えていたそうです。江戸幕府もここを重要視し、一部の土地(といっても一番おいしいところ)を直轄地としていたそうです。その後、機械が発達し、さほど地形の利用をしなくてもよくなってからは熊川は地域の中心地としての機能を低下させていきます。地域の中心から外れた事が幸いして近代化や再開発の対象とならなかったために、かつての宿場町(の面影)を今日まで残すことになりました。そして現在の旧熊川宿は、国の指定する「重要伝統的建造物群保存地区」になっています。年々整備も進み、観光客も増えてきているそうです。私が行った時にちょうど、あの「キャンディキャンディ」の作者が歴史の街のスケッチシリーズを描くということで、たくさんの人を連れて見学に来られていました。
熊川は、戦国時代沼田氏の治める地で、時の熊川城主沼田光兼の娘、麝香(じゃこう)は細川幽斎(藤孝)の正室として嫁いでいます。また、その後の織田信長が朝倉領を攻める際にはこの地に信長以下要人を泊めたそうです。守に都合のいい地形だったからだそうです。時は豊臣秀吉の治世となって若狭の領主となった浅野長政は1589年(天正17)、熊川を諸役免除の下に宿場町とします。その後は急速に発展し40戸ほどだった村が、200戸を超える町になりました。江戸期を通じても宿場町としての指定を解かれる事無く、明治維新を迎えます。
そんな熊川の事を地元の方に聞くと、とても熱心に町自慢をしてくれます。宿場町沿いの「宿場館」(資料館)の職員の方には親切に熊川の歴史を教えて頂きました。さて、熊川の名物ですが、鯖街道沿いということで鯖鮨は筆頭名物です。1200円程ですが、鯖は肉厚で臭みもなくおいしかったです。また、鯖を麹でつけた(名前を忘れてしまいました)ものも「甘みがあっておいしいよ」と店の方が薦めてくれましたが、その時は賞味の機会がありませんでした。是非挑戦してみて下さい。その他、熊川の地酒や蜂蜜、熊川葛がありました。熊川葛は上質の吉野葛よりさらに質がいいと言われているそうです。
町並みは1.1キロに渡って続き、途中にある宿場館(町の資料館になっている)や熊川城跡、町に残る建造物などを見てゆっくりと歩いても3〜4時間程の行程です。町にお住まいの方には失礼な言い方かも知れませんが、建設系のものは何もない町です。しかし、私はそれが貴重だと思っていますので、良い方に採って頂ければと思います。ゆっくりのんびり散歩を楽しみたい方にはとてもお勧めできる町です。同じようなロケーションを求めている方は是非どうぞ!
つたない文章でしたが、今回の旅はこれで終わりです。次回は、どの街をご案内するかまだ決めていませんが、こんな調子で気侭にぶらっとするつもりです。どうぞまたお立寄り下さい。また、みなさんのご意見ご希望もお寄せ下さい。参考にさせて頂きます。では、また次回に!!
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