1961年の池田駅前
The pictre of ikeda in 1961
(株郷土出版社)
1961年(昭和36)当時の池田の様子です。池田市消防署望楼よりの写真で、手前には国道176号線が見えています。右の奥が五月山で、それに向って伸びている道路が今の職業安定所やコミュニティーセンターへ通ずる桜通りです。道路は舗装されていますが、交通量がすごく少ないです。信号もありません。今となっては信じられない状況ですね。写真中央よりやや左に住友銀行(白い建物)が見えていますが、これは今と同じ位置にあります。それ以外は随分変わってしまったようです。阪急池田駅は写っていませんが、写真の左の方にありました。当時は、まだ高架線路ではありませんでした。
この撮影以後、年々池田にも高度経済成長の波が押寄せ、公団住宅やマンションの建設、工場誘致の促進、中国自動車道、阪神高速道路などの整備によって次第に池田市の様相は変わって行きます。毎日の生活は、豊かにまた、便利になりました。が、それによって交通量の激増や公害などに悩まされるようになります。公害が社会問題化される頃には、池田は光化学スモッグで有名になるという汚名を背負います。
池田は大平洋戦争中、ダイハツ工業や伊丹空港、五月山に魚雷格納庫があったりと軍事色が強かったにも関わらず、戦災を免れて(小規模の空襲はあり、犠牲者も出ています)古き良き町並は残りました。しかし、その後の高度経済成長で伝統的町並は徐々になくなりましたが、今も綾羽・新町にはその当時の面影を残す商家などが残っています。
こうして古い写真を通して昔を振り返ると、都市の発展と文化、環境等といったバランスを取りながら時を重ねるのはとても難しいものだなと思ったりします。どの町も同じですが、今起っている社会問題は「便利にはなったけれど・・・」といった思いも強いのではないでしょうか?私たちのまわりを見るとなにか、ひとつに集中し過ぎた豊かさの裏返しが問題なっているように思えます。
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