片桐且元画像
The picture of Katsumoto katagiri
(大和郡山慈光院蔵)
且元は、豊臣秀吉子飼いの武将として特に賎ヶ岳合戦で活躍し、賎ヶ岳七本槍の一人としても有名です。その活躍で三千石を与えられました。その後、九州や小田原を転戦し、文禄の役には渡海して朝鮮半島で戦い、帰国して今度は、諸国の「検地奉行」や「方広寺作事奉行」などを勤めました。且元は、文武両道に長けた人物だったようです。同じ秀吉子飼いの武将で、加藤清正や福島正則のようにトントン拍子に万石大名になったグループとは違い地味な感じは受けますが、常に時の政権に影響を与えたのは賎ヶ岳七本槍の中でも加藤、福島に次ぐ人物だったのではないでしょうか。秀吉の晩年には、秀頼の後見料も含めたのかも知れませんが、一万石の知行を得ます。この間、摂津池田村の代官を勤めたりもしているようです。
関ヶ原の合戦以後は、秀頼付奉公人・側近を維持しつつ、徳川家康にも信任を受けて茨木城主となります。翌年も家康から加増を受けて、大和龍田藩を創始します。豊臣家でも重責を担い、秀頼の名代・使節として家康と接触して諸種の奉行を勤めて活躍します。多忙な中、1604年(慶長9)には秀頼の発願で池田村の伊居太神社と呉服神社を且元が奉行となって再建しています。
1614年(慶長19)、有名な方広寺の鐘銘事件が起ると、且元は淀君から疑われ茨木城に退去します。且元は1615年(元和元)京都で没しますが、その頃には四万石の大名になっていました。その後、片桐家は嗣子に恵まれず、世継ぎが早逝続きでついに、且元が藩祖となった大和龍田藩は断絶となってしまいます。しかし、幕府は何とか存続させようと片桐家の縁者を三千石で寄合に取りたてますが、その本人も嗣子無く早逝してしまうという不運に終りました。
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