賑わう町
The view of a town in the edo period
(遊行寺蔵:国宝)
1208年(承元2)の「女清原氏田地売券案」という私有地の売買に関する古文書に「在豊嶋北条宇保村十九条二里卅四坪内」との記録が有り、既にその頃に宇保に村のようなものがあって、土地が売買される程の需要があったことが古文書から読み取れます。その他、1226年(嘉禄2)、翌年と「田地売券」の中にも宇保村が頻繁に登場しています。
現在の池田市域では宇保町辺りに、平安時代の末頃から呉庭荘(くれはのしょう)と呼ばれた荘園がありました。呉庭荘は、平安時代中期に河内国(堺周辺)の土師地方(はじ)から坂上正任(さかのうえまさとう)がこの地に入植したとされています。他にも、現在造園業者が多く集まる細河地区にも細川荘という荘園がありました。それらの荘園とは対照的に宇保村一帯は、周辺に大きな街道があることから次第に市が立ち、大きくなっていったようです。(挿絵:一遍上人絵より鎌倉時代の備前福岡)
全国的に見ると、公家が支配する平安時代後期あたりから、力をつけた武士が政治の実権を握るようになり、以後明治維新まで公家が政治に参加することはありませんでした。その後、1192年に源頼朝、1336年に足利氏が幕府を開きますが、政権が交代するまではある程度平和が保たれて、安定した世の中が持続します。その間、農業生産量も増大し商業活動も活発になりはじめました。また、鎌倉時代あたりから宗教、美術、建築など様々な分野で新しい動きが活発に起こり始めました。そんな中、鎌倉頃から池田地方もそういった動きに反応して経済、文化などが発達し成熟していったようです。
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