見出し:池田氏関係の図録
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写真:飯田三郎右衛門の墓飯田三郎右衛門の墓
One of the bow master Samurai, Saburoemon Iida's Grave.

飯田三郎右衛門の墓は、現在の東大阪市岩田町3番にあります。その墓の案内板などによりますと三郎右衛門は、河内国高井田(現東大阪市高井田)の生まれで、幼少の頃から武芸に優れていたようです。殊に弓術に優れており、成人して織田信長などに仕え、その後も豊臣秀吉・同嫡子秀頼に仕えていたと伝わっています。三郎右衛門は、1615年(元和元)5月の「大坂夏の陣」で、敵方の武将山口伊豆守重信勢との交戦で、河内国若江で戦死したようです。その後に三郎右衛門の嫡子(次男)が、同国岩田村に住み、この墓を建てたと伝わっています。多分、信長に仕える以前の三郎右衛門は、河内守護畠山氏や阿波の大名三好長慶などに属していたと思われます。

 さて、弓術を得意とする者の記述が、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの著作「日本史」の中にも登場します。
 1563年(永禄6)の記録の中に、大和国の「十市」という城があり、その城主は石橋某だったとしています。その石橋某は、それ以前には尾張国の「殿」(国人)であり、その地で起きた戦争に破れて国を出、三好修理大夫長慶衆松永久秀に再仕官していたようです。久秀が、石橋某を抱える事となった理由の一つとして、石橋某は日本国中で彼に優る弓手は他に無く、また、諸国に彼の夥しい門弟を有していたからと記述されています。こういった突出した技能や特技は、やはり一目置かれるものになっていたようです。石橋某の弓の腕が、再仕官に役立ち、また、城主に抜てきされる理由を助けたのは必然だった事でしょう。
 これらの伝承には、興味深いものがあります。当時、鉄砲が導入され始めたとはいえ、まだまだ主要武器の一つであった弓の重要性を示すものでもあると思います。

 今も「一芸は身を助く」と諺が残りますが、飯島三郎右衛門も優れた弓の技術(門弟やその縁故者も含む場合も)を以って、信長など時の主導的人物にも一目置かれたのかもしれません。こういった状況は摂津池田家にとっても共通の概念があったのかもしれません。
 池田市内の池田城跡周辺に旧字名で「弓場」という地名があったのも「弓」の練習場所が設けられ、池田家の中でも弓をある程度重要視していた事が推察されます。この事から、池田家中にも、弓術について指導的立場の者が居たと考えても不自然ではないように思います。
 いや、きっと、そういう技術を持った人々を積極的に抱えていただろうと思います。世が秩序は乱れ、様々な技術や人との繋がりこそが、自分を守り、拡大できる戦国時代であったのですから、摂津池田家でも自然なカタチで受け入れられていたのではないかと個人的には考えています。

参考:中河内郡史、河内名所図絵、東大阪の歴史と文化財、フロイス日本史、弓矢と刀剣(中世合戦の実像)など

2005年10月12日:記

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