摂津榎並城跡
The ruins of the Enami Castle.
摂津国東成郡の榎並城に関する初見は、1548(天文17)年10月28日の事として、細川両家記に記述されるもののようです。
この時は、永年の確執もあって、三好筑前守長慶が細川次郎氏綱に加担する事を決め、同族で同名の越前守政長とその嫡子同名右衛門大夫政勝を大挙して攻めました。これに摂津国人である池田衆も加わっていた可能性が高いと考えられます。
この闘争は、次郎氏綱方へ寝返ったとは言え、降伏して恭順(隠居・出家して宗田と名乗っていた)していた池田筑後守信正に対して、管領である細川右京大夫晴元が異例の切腹下知を行った事がキッカケとなっていました。
また、これを機に京都の中央政治の流れが大きく変わる事ともなりました。この時、筑前守長慶も右京大夫晴元から離れ、その外の有力者も多くがそれに従って晴元に見切りをつけます。三好政長・政勝父子は右京大夫晴元の重臣で、榎並に城を築いて活動していました。
さて、その榎並城についてですが、他の多くの城と同じく詳しくはわかっていません。また、大阪市による公的な発掘調査は行われていませんので、科学的・物理的な実証もなされていません。
しかしながら、おぼろげに文献による推定が行われいて、それによると天文年間(1532〜55)に三好政長によって築かれたとされています。榎並城は榎並庄内にあり、榎並庄は、現在の大阪市城東区野江・関目付近を中心として、旧大和川と淀川の合流点に近い低地帯に存在していた大規模な庄園(正確な庄園域はまだ未定)でした。
そんな地勢から、この方面は多々水害に遇ったそうですが、逆に水は豊富で、榎並城はそういった環境を利用して、堅城だったようです。
1549(天文18)年6月24日に、摂津国江口で三好宗三政長が戦死し、その嫡子右衛門大夫政勝も政治の実権を失い、榎並城を維持できなくなって去ります。その後は荒廃したりしていたのかもしれませんが、暫く史料にも現れず、不明です。
しかし、織田信長と摂津国大坂本願寺との闘争の中で榎並城跡地を再利用したと推定されていて、本願寺方が五十一城とされる支城として守っていたようです。
現在、榎並城の遺構は残っていませんが、現在も残る水神社(野江水神社)がその一角とされ、その近くの榎並小学校一帯がその城域と関係する場所と考えられています。今はそこに碑が建てられています。また、同地は榎並猿楽発祥の地でもあると、その石碑に刻まれています。
※写真は2001年に撮影。
参考: 大阪府史、大阪市史、摂津市史、吹田市史、大阪府の地名1、
日本城郭全集9、日本城郭大系12、三好長慶(人物叢書)、戦国三好一族など
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