酒造りの様子
The view of a sake factry in edo period
(池田市立図書館蔵)
これほど大坂地方で酒造が盛んになったのは、室町期に流通経済が勃興し、大坂周辺に京都などの大消費地があった事と、更に江戸期には正式に大坂が幕府によって物資の集積地に指定(習慣としては豊臣時代からだったようです)されて、全国の市場になっていた事が上げられるようです。今のように防腐剤等を使わないので、「早くさばける」というのは直接品質にも影響したことでしょう。ターミナルに近く
酒造は大坂地方の優れた産業で、全国でも有数の生産量でした。「本朝食鑑」という今でいうグルメ本には、酒は奈良を第一として、伊丹・鴻池(あの財閥で知られる鴻池は、元は酒造家)・池田・富田がこれに次いだと書かれています。しかし、戦国時代も終わる頃には奈良酒を代表する、天野山金剛寺の酒は衰退していましたし、灘の生一本に代表される神戸地方の醸造業は、一番遅く出てきたもので江戸時代の元禄を過ぎたころから、輸送の利便性も良かったことから急速に発展したのでした。
畿内では十八万石余の酒を生産していましたが、次いで西国筋十六万余石、出羽・奥羽地方十四万石余、といったところがめぼしい酒造地で、機内は酒の最大生産地となっていました。中でも池田は、元禄10年の記録によると一万千二百二十三石の生産が記録されています。
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