池田充正・知正・三九郎画像
Pictures of the Ikeda's family
(池田大広寺蔵)
十代目の池田城主備後守知正(肖像中央)が、1604年(慶長9)に49才で没して(神田館で没したと言われている)大広寺に葬られましたが、嗣子がなかったので知正の弟である光重の長男を養子として、池田本系を継がました。名は、三九郎(肖像右)といい豊臣秀頼に仕えました。しかし、その三九郎もその翌年、1605年(慶長10)に18才の若さで没します。相次ぐお家断絶の危機に池田の北、東山村にいた光重が本系の家督を継ぐために、池田城に入ります。彼も秀頼に仕えて官位も次第に上がり、最終的には備後守となります。
光重は信仰心が篤かったようで、知正と三九郎の菩提を弔うために両人の画像と梵鐘、及び十石の田地を大広寺に寄進します。また、次男の重長のためにも椋橋村(現豊中市)の椋橋神社に獅子頭、神田村(現池田市)の八坂神社に本殿を寄進し我が子の無事成長と武運長久を祈願しました。この時のものが何れも現存しています。
充正の画像(肖像左)については、いつごろ描かれたものかはっきりしていませんが、光重が菩提を弔うために奉納した画像よりは古いようです。1831年(天保2)、充正没後350回忌に当たり塩増山大広寺、第二十八世甫童和尚が、当時既に損傷の進んだ画像を修復したものが、今日の充正公の肖像です。画像は3点とも大広寺に現存していますが、特に一般公開はされていません。
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