摂津国安威城跡
The ruins of The Ai castle
摂津安威城は、大阪平野北部山地の南側、阿武山あたりから続く丘陵突端部にあった城で、亀岡街道の一部を城内に持つ構造になっています。この安威城の築城年代は、はっきりとわかっておらず、また、その全貌もわかっていません。
しかし、この地域の有力者の城であった事は推定されており、安威郷の地名が古くからあった事、継体陵古墳が三島藍野陵と呼ばれる事、式内社である阿為神社に祀られる雷大臣は中臣藍連の祖で、その一族がこの地域で栄えていたらしい事などから、その根拠が上げられています。
そんな安威地域には、有力者である安威氏が代々居城しており、永正年間(1504-20)頃に弥四郎によって築城・拡張されたとも推定されています。
更に安威五左衛門尉了佐が、豊臣秀吉に仕えて信任を得、1586年(天正14)には茨木城に入り、安威城は廃される事となったようです。
さて、この安威氏が池田氏と浅からず関わった時代のひとつが、元亀年間でした。1570年(元亀元)9月、池田家内訌の時、荒木村重に従って摂津守護池田筑後守勝正方掃討を行っているようです。続いて1571年(元亀2)5月、摂津守護である和田伊賀守惟政により、安威城が落とされたと伝わっています。その当時の当主らしき安威三河守勝宗は、この頃、池田(民部丞)知正と同じ三好三人衆方だったと考えられます。そして、知正はこの勝宗を何らかの形で保護や支援を行い、同年8月下旬の白井河原合戦では、共に惟政勢として戦って勝利します。間もなく勝宗は、安威城を取り戻しているようです。
そして、1573年(天正元)9月6日、織田信長衆明智光秀からの知行地安堵状を受け取っている「安居三河守」という人物が居りますが、これは「安威三河守勝宗」である可能性が高いと思われます。
この頃、摂津国一職支配に向けて、荒木信濃守村重が注目される中にあって、同じ摂津国内にありながら、信長方から知行地安堵を約束されるという独立的地位を安威勝宗は得ていたようです。村重の目付けといった役を担っていたのかもしれません。
安威氏は室町幕府にも取り立てられていた事(言継卿記3-P277には奉行衆として安威兵部少輔が登場している)が、信長政権内で重用される一因だったのかもしれません。安威氏は、豊臣氏の世でも取り立てられ、後生にも永く存続していきます。
参考: 茨木市史、新修茨木市史、、わがまち茨木、高槻市史、
大阪府の地名1、日本城郭大系12、日本城郭全集9、
織田信長文書の研究-上、言継卿記3、荒木村重史料(伊丹資料叢書4)など
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