池田城甲?伊賀家老屋敷の跡
The remains of a chief retainer's house, the Ikeda family
古文書では、甲賀谷の北側に家老の「甲?伊賀屋敷」があったと書かれています。今は、ご覧のように駐車場になっています。そのあたりは江戸時代の元禄頃の記録によると甲ケ(甲賀)谷町と言われたところで、大工職人が多く住んでいました。それ以前からそう呼ばれていたのかも知れませんが、記録がありませんのでわかりません。
ちなみに、池田城跡の想定模型があるのですが、そこに作ってある家老屋敷などの建物は発掘調査に基づくものでは無く、適当なのだそうです。
しかし、「家老甲?伊賀」の「?」の部分は「賀」だと思いますが、このは部分虫食いか何かで不明のため「?」にしてあるのですが、町の地図や他の文章では甲賀谷と書かれたものもある事から、多分「甲?」は「甲賀」と書いてあったのだと思います。甲賀という名の「伊賀守」だったのかもしれません。
また、町の名前としての甲ケ谷町はその名残りであると考えられますので、やっぱり江戸時代の記録以前から「甲賀」の名は使われていた可能性が高いと思います。
古老のお話しでは、「甲ケ谷(町)は、昔、甲賀から移って来た人が住んだところだと聞いている」との事で、これも繋がりのありそうな話しで興味深いです。
そんな事からこの家老は、甲賀から移ってきた人で、土木や建設関連に強い人材なども家人脈の中に抱えていたのでしょうか?常に破壊される戦国の世ではやはりそのような人材は必要で、必修ともなっていました。また、ご存知のように、甲賀は「忍」をはじめとした特殊技術を持った集団もあったとされる所でもあります。
更に、念を押すかのようにこんなエピソードもあります。池田城主であった池田筑後守勝正は、織田信長に降伏後、摂津守護の待遇となりますが、同じ摂津守護の一人で甲賀出身の和田伊賀守惟政とは親しかったようで、お互いに助けたり、助けられたりしたようです。そのような事を考え合わせると、やはり池田に「甲賀」が浅からず関連している事は、不自然ではないように思いますね。
▲ マップ(詳細図)はB-ア ▲
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