池田弘誓寺
The Guzei temple
池田市綾羽(あやは)1丁目に弘誓(ぐぜい)寺があります。ここには池田城があった頃、家老屋敷があったと記録に残ります。「穴織宮拾要記 末」の中に「五人之家老町ニ住ス」として、池田民部、大西与市右衛門(大西垣内に屋敷)、河村惣左衛門、甲?伊賀、上月角?衛門と記されています。その文を抜粋すると、
「一、今の本養寺屋敷はハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル(後略) 一、家老甲□(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角?衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云右五人之家老町ニ住ス」
とあります。
大西とは池田家中の中で総領筋(城主となる)の者が代々入る場と推定される研究者もおられます。その跡(向かい?)に今も残るこの弘誓寺の開基は、池田筑後守充正(1428〜1482)の一族だと寺伝にあるようです。続けると、寺の開基は道空で、俗姓は大西(池田)筑後守充正一族、大西隼宜正の長男で源五ということです。彼が1510年(永正6)に本願寺第九世実如上人の直弟となり、一寺を創立したのが寺の始まりとの事です。そして、この寺の号は「大西山」でやはり池田家との関連を強く感じさせます。
寺と城とは関連がある場合が多く、五月山の大広寺なども池田氏が援助したその菩提寺として有名です。
また、実際に当時の本願寺証如などの幹部の日記には、これらの一派らしい池田家の名がよく登場します。
ちなみに、この寺の北側の道路を挟んで向側には、出雲大社の池田分社があるのですが、ここが家老大西与市右衛門屋敷跡だったと上記の記録にあります。また、この弘誓寺の西隣には家老の河村惣左衛門屋敷があったようです。
話しを元に戻して、本願寺と池田家の関係ですが、心情的・政治的関係が自然に、または、意図的に行なわれたかどうかというところまではわかりません。
しかし、本願寺の証如や幹部が書き残した当時の日記(記録)には、摂津池田氏の事がよく登場します。国人(豪族)の地域統治や対人関係を知る上でも興味深い記録です。
さて、大西氏などの家老屋敷があったとされるこの地域からは、池田城が一直線によく見え、城の施設として城下町の何らかの役割を担っていたかもしれません。更に飛躍が許されるなら、この付近には、侍屋敷などの付帯施設もいくつかあったりしたのかもしれません。
いずれにしても、この辺りは池田城と城下町とのかかわりが非常に強い地域です。近くを通る時はちょっと注意してみてください。
▲ マップはA-ア ▲
追記:2002年5月10日頃、出雲大社池田分祠の前に立って愕然です。社殿の建て替えをしていました。発掘などは行われていないようですので、上記の件についてはこれで永久に迷宮入りです。
参考:大阪府の地名、池田町史(昭和14年発行)、北摂池田、
池田市内の寺院・寺社摘記(個人著)、本願寺日記
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