池田城的場跡
The remains of the parade ground for projectile weapons
現在の池田市綾羽2丁目が旧名だった頃、旧小坂前町の東部から旧北之口町の北辺の辺りを「的場」と呼んでいたそうです。池田城からは直線距離で西北西に400メートル程のところにあります。
古くからお住まいの方に聞くとご存知の方も多いようです。このあたりは今も古い家並が残っているところで、その家並みが途切れる所、「水田國重」の刃物屋さんの裏(横)あたりがそうです。
また、戦国時代も後半になると太平の世に移りつつある時で、摂津の池田氏が滅びた後、町も大きな被害を受けていたようですが、三々五々旧家臣が池田に戻り住んだようです。その時、この小坂前町にも旧家臣が住みついたと言われています。
的場は現在住宅地になっていますのでその痕跡はありませんが、以前はここに杉ケ谷川が猪名川へ向けて流れていましたが、今ではこの写真でのように埋められ(川が付け替えられ)道路になっています。位置としては道路の中程から左手にかけて上に向う一帯が昔、的場と言われていたところです。ご覧のように、ここは勾配があり、的場としては適しないような気がしますが、どのような使い方をしていたのでしょうか?的場というくらいですから、弓や鉄砲だと思うのですが、もしかすると深く掘り込んで使っていたのかも知れません。
そう思う理由は、2000年の4月1日に池田城跡公園が開園され、その一連のイベントで大阪府堺市から古式銃(火縄銃)のデモンストレーション(空砲一斉射撃)があったのですが、それはもう500メートル以上離れていて、しかも家の中に居てびっくりする程の音でしたから、防音対策と安全も考えてそのような工夫もされていたかも知れません。
ここは、今では池田市の伝統的な火祭り「がんがら火」の通る道もあり、今もその古い小さな道は使われ続けています。しかし、発掘等々はされていないようですし、また的場という古い地名も忘れられて逝く事でしょう。時は流れるのでしょうか?それとも積み重なるのでしょうか?複雑な思いもありますね。
※2009年現在、残念ながら「水田國重」商店は、取り壊されてありません。
▲ マップ(詳細図)はA-ア ▲
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