池田城推定復原図
A presumed reconstruction of Ikeda castle
(地図:池田市立歴史民俗資料館発行「戦国の動乱と池田氏」より作成)
池田城は五月山から南に張り出た標高35〜55mの台地にありました。平野部とは5〜25mの差があって、城より西に広がる池田の町を一望できる立地にありました。
その築城から時を経て徐々に機能拡張され、最終的な城域は、東西約330m、南北約550mに及ぶ規模となっていました。城郭の形式は、城郭研究ではいわゆる「梯郭式」と呼ばれるもので、北の五月山と杉ヶ谷川の流れる開析谷を守りとした天然の崖を取込みつつ、堀や郭を放射状に配した後堅固の城であったことがわかっています。
特筆すべき点として、城内に街道(江戸期には能勢街道と呼ばれる)を取り入れてあり、その付近(一番外側の郭)に池田氏と関係のあった商工人などを住まわせていたようです。もし領内に有事があれば、街道を閉鎖しそれらを保護したり、物資流通や人の往来を妨害したのではないでしょうか?調査の結果では池田城の場合「惣(総)構え」を持たず、主郭にあたる建物などはなかったと考えられています。
しかし、証明はされていないのですが、「惣(総)構え」を形成していたと思われる記述の古文書もあり、もしそれが本当だとすると池田城はかなり防御能力の高い城だったといえるのではないでしょうか。
また、池田城には一部石垣作り(勝竜寺城にも石垣使用形式の類似点を確認)で庇を持つ建造物などが確認されていたり、同時期の城としては珍しく日常生活にも配慮した構造になっていたことが特徴としてあげられています。
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