見出し:池田氏関係の図録
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写真:和田惟政墓和田惟政墓
The grave of Koremasa Wada.

和田伊賀守惟政の墓(供養墓)は、大阪府高槻市奥天神にある伊勢寺に残っています。
 和田氏は甲賀武士団の有力者で、近江国の六角氏に属していました。また13第将軍足利義輝の御供衆を勤め、その弟15第将軍義昭にも近従として仕えていました。細川藤孝、三淵藤英、一色藤長らと共に高い地位にありました。
 惟政は、13第将軍義輝が1565年に京都で三好一党に討たれると、出家していた弟の義昭の命まで危うくなったので、奈良から脱出してきたところをかくまいました。
 義昭は、再起を図るため惟政、藤孝らを伴って、若狭・越前・美濃など諸国を歩き、遂に織田信長という支援者を得るに至ります。その間、惟政は義昭に忠誠を尽くし、1568年に義昭の京都上洛が成った時に惟政は、摂津守護を命じられます。惟政は、京都防衛上大変重要な摂津国島上郡へ入れられて幕府から重用されます。和田家は伊賀の一豪族から、一国の守護となりました。

 また惟政はキリシタン武将としても有名で、宣教師達と親交が深かったようです。宣教師達の記録の中には、キリスト教の良き理解者として、また「都の副王」として書かれていて、彼の摂津時代の輝かしい活躍が記録されています。惟政は始め芥川山城に入り、後、高槻城に入って近隣を侵蝕して勢力を拡大していきました。
 しかし、そんな彼も1571年(元亀2)の白井河原の合戦で池田方の中川清秀に討たれ、様々な方面に波紋を投げ掛けました。惟政の死後、その子の惟長が継ぎますが、うまく戦国の世を乗り切ることができずに没落していきます。宣教師達に都の副王と言わせる程輝いた和田惟政もその後は、人々にも忘れ去られたかのようでした。

 さて、この墓は享保年中(1716-36)に高槻城を改修した際に発見されて、これを藩士の清水五平治林成が伊勢寺に移したものと伝わっています。この墓自体も本人を葬ったものではなく、それより後に惟政を偲んで建てたものだろうという事です。ちなみにもう一基、和田惟政の墓といわれている五輪塔が茨城市五日市にあります。

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