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ページタイトル:池田の歴史
※解った事から徐々に文章更新しています。最新の更新部分は青色の文字で表示しています。ご覧下さい。

<古代>
少し遠い話しですが、池田地方にヒトが最初に住みついたと考えられているのは、縄文時代頃からと考えられています。五月山の伊居太(いけだ)神社の参道付近から縄文式土器と一緒に石鍬が発見されています。また、同時代のものと思われる遺物が池田市の住吉地区と猪名川(いながわ)対岸の兵庫県川西市能勢口(のせぐち)からも発見されています。五月山を中心とした狩猟や漁労がこのころ行われていたようです。今から1万年以上前のことです。

<弥生時代>
弥生時代には大陸から稲の栽培技術がもたらされ、この頃の遺物は比較的多く出土している事から、人々も多く住んでいたようです。池田市にある宮ノ前池の東側、宮ノ前遺跡(現中国自動車道)から当時の豪族と思われる墓が20基とそれを囲むようにして人民の墓が100基出土しました。墓は居住地域から遠くない所に作られる事が多いことから、この墓から想像すると比較的大きな集落があったと考えられています。
 2000年前には、このような小国家ができ始めて、それらは池田にもあったのではないかと考えられています。

<古墳時代>
国家として体裁が整いつつあった古墳時代には、比較的大きな古墳が池田に五つあって時期的には前期・後期のものですが、特に後期のものは壮大なものです。中期にあたる古墳は池田では見つかっておらず、なぜかお隣の豊中市に集中しています。
 池田で発見された古墳は、朝鮮半島からの帰化人である秦氏・漢氏一族のものと関係が有ると考えれれています。秦氏については、当時の日本が戦乱に苦しむ朝鮮半島からの亡命者を多数受け入れています。その数は二万人にのぼると言われています。秦氏はその中でも最も有力な勢力で、進んだ技能と知識を持っていたために、京都を中心に受け入れが進みました。当時の日本政府は、彼らを国をあげて受け入れます。
 池田にも彼らの居留地が設けられます。その優れた技能が各地で実を結び始めた頃、池田でも発展のキッカケをもたらします。
 現在の池田市畑地区に秦氏一族が多く住んでいました。秦→畑になったようです。
 また、彼らは中国大陸から技術者を日本へ招聘しました。それが今日まで池田には、「クレハトリ」「アヤハトリ」伝説として残されています。


<平安・鎌倉時代>
平安時代も終わりを迎える頃、坂上田村麻呂(さかのうえ たむらまろ)の流れをくむ名士、土師太郎正任(はじたろうまさとき)という人物も土着し発展に拍車がかかります。彼らは、1165年(長寛3)に後白河法皇に池田の土地を荘園として寄進し武官の称号を受けて中央に知られるようになります。
 この頃の日本はまだ流通経済はさほど発達しておらず、ほとんどの地域が自給自足だったのですが、多くの街道を交差させる池田においてはその地の利を生かして、はやくも流通経済が芽生えていたようです。
 時代は下って、鎌倉時代になる頃、その町はかなり発展していたようで、同時代の書物によれば、「油問丸(問屋)など商家が軒を連ねて呉服田から宇保・尊鉢まで約一キロに渡って続き、更に錦屋町というもう一つの町をつくる程の発展をみせていた」と記録にあります。また、この頃から池田氏の勢力も広がり始めたようで、当時の古文書にも多く名が見えるようになります。
 最近の研究では、1284年(弘安7)の勝尾寺文書中の藤原政長という人物は池田正(政)長と同一である可能性が高まり、これにより池田とはその地名を差し、正式には「藤原姓」を名乗っていたという事になります。このことから今後の摂津池田氏研究が更に発展する事が期待されます。


<室町・戦国時代>
室町時代に入り池田氏は更に台頭します。池田教依(初代の池田城主?)は、五月山々麓に池田城を築いて次第に城下町が形成されて行きます。池田氏は京都の中央勢力とも緊密な関係を持っていたので、応仁の乱に始まる戦国時代に度々城を含む城下に被害を受けます。ちなみに池田氏は北朝方に加担していたようです。しかし当時は流通経済も日本中で徐々に定着しはじめた時期で、複数の街道を抱える池田は時代背景にも助けられてその都度復興を遂げていきます。池田氏はその逆境に潰される事無く、その地の利を生かしてそれまでの領地支配と共に金融業でも成功し巨富を得ます。
 その後池田氏は、織田信長の北摂侵攻の際に降伏したとはいえ、加増を言い渡され、足利義昭政権内で摂津守護という、最高の地位を得、その居所である池田城は、守護所となって、摂津国内政治の中心地のひとつとなります。
 しかし、間もなく、摂津池田家の家臣である荒木村重や中川清秀にその政治・軍事的主導権を握られ、池田氏は没落します。その村重は暫く池田に居城していましたが、間もなく伊丹城(現兵庫県伊丹市)に居城を移したため、池田城は城下町としての機能は低下していきます。
 やがて村重は突然の謀反を起こし滅ぼされます。池田氏はもはやかつての勢力回復は叶わず、以降豊臣政権下では天領(直轄地)となっていました。
 大坂の夏・冬の陣で有名な武将片桐且元(かつもと)が代官を勤めたとの記録があります。また、池田では、15世紀中頃から酒造業が起こり徐々に発展していました。この酒造業が江戸時代になり、池田に繁栄をもたらします。

<江戸時代>
江戸時代に入っても、軍事的・商業的要地に変わりはなく池田は幕末まで直轄地(天領はその後五株に分れます)になります。池田は城下町から商業都市としての転換期にあり、また太平の世になってからは、尚一層流通経済が勢いを増した事が再び町を繁栄させることになります。
 この頃、大坂と能勢を結ぶ街道(後に能勢街道)の整備がなされその中間に位置する池田は
山麓交易地としての地位を益々高めます。
 1697年の調査によると池田の戸数は、1447戸と同時期の摂津富田478戸、富田林420戸、芥川800戸、貝塚1536戸、平野郷820戸等と比べても畿内では有数の大都市でした。池田は街道の交差点としての人の往来に関する事はもちろん、能勢・大坂方面からの双方の物資を集散して月に12回の市を開いていたと言います。
 主に米・果菰・衣服・置物・漆材・柴・炭・食肉などが市で売られていたようです。池田独自の産品として市によらず常に売買されていたものでは、酒・炭・植木・綿製品があります。綿製品以外はいまでも生産されており特に、酒・炭は今でも根強い人気があります。
 15世紀中頃から続いていた都市産業としての酒造業は、1614年に徳川家康より朱印状を送られて以来、池田の主要産業となり更に発展します。
 元禄時代(1688年頃)には最盛期を迎えます。1999年の大河ドラマで取り上げられている赤穂浪士達も江戸へ送られた池田の酒を飲んでいたかもしれません。この頃池田は好景気に沸き、兵火に晒された寺院や新たな寺院が次々と再建・建設されいきます。
 しかし、間もなく同郷の酒造家との訴訟問題を機に酒造は衰退していきます。実質の酒造家数は幕末頃まで変化はありませんでしたが、それを扱う酒問屋は減少していきます。同時に酒造業者の新旧交替も有りましたが再興とまでは行かず、池田での酒造業は衰退します。
 そんな中、池田では金融業への移行が行われつつあり、産業構造の変化が起きます。新町辺りがにわかに活況を呈します。
 全体としては製造業から金融業に変わる中で、依然衰えることの無かった産業としては、「池田(細河)の植木」があります。池田の細河地区で生産される植木は江戸初期には既に全国的に有名で、明治以降は海外にも輸出されました。現在の同地区は今でも園芸業が盛んで、最近のガーデニングブームも有り、市の開催日には賑わっています。
 池田は北摂の中心都市的役割を担い、流通経済勃興から江戸・明治を経て第二次世界大戦後も暫く続きました。池田は、時代の変化に洗われながらも山麓交易都市として機能し続けました。幕末の混沌とした世相の中、池田村では製造業の衰退とともに、金融業への産業構造転換が起きていました。これが明治の政権交代時に金融ショックを起す元になったようです。

<近代>
1872年(明治5)に新制の池田村が誕生し、1889年(明治22)には池田町に昇格します。1843年(明治43)までには、郵便局、警察、銀行などの開設や現JR福地山線・阪急電車の開通と社会資本の整備が急速に進みます。また、特筆すべきは、明治末期から大正初期にかけて室町地区の室町住宅が発売されます。
 これは日本初の建売住宅で池田がその先駆けとなりました。電車が開通していた事もあってその後も順調に大阪の衛星都市として宅地化が進み、満寿美住宅地・上池田・呉服の里・石橋荘園が次々と宅地化されて行きます。
 この頃売り出された家は現在では羨ましいばかりの大きな敷地です。今でもその端正な町並みには上品さを残します。

<昭和から現在>
昭和には、1931年(昭和6)から3年かけて建設した府道大阪・池田線(現国道176号線)が開通して、工業化の音が池田にも聞こえるようになります。また、高槻・伊丹線も開通して、今度は人間ではなく、機関による移動の中継点となります。同線は京都と神戸を結ぶ最短道路で、池田はその中間に位置します。
 1935年(昭和10)上水道が主要市街地に完成し人口は、31,000人を超えます。1939年(昭和14)大池田町から池田市に昇格します。また、同年、大阪発動機製造株式会社(現ダイハツ工業)が池田に操業を始めます。昭和には地理的好立地に加え、社会資本が整備された事で産業施設の進出が相次いだようです。また、1938年(昭和13)に大阪空港の前身である「大阪第二飛行場」も完成し急速に発展します。
 第二次世界大戦を経て暫くすると、更に社会資本の整備が進み、池田団地を始め多数の住宅等も建設され、池田市は急激に都市化します。1950年代の後半の経済高度成長時代には、中国自動車道・阪神高速道路が開通し1975年(昭和50)人口は10万人に達します。しかし便利になった反面工場や車からの排気ガスで池田は慢性的な大気汚染に悩まされるようになります。皮肉にも進んだ社会資本によって「光化学スモッグの町」と汚名を着せられることになりました。
 1975年に人口は10万人を達成して以来、現在もほぼ同じで数は殆ど変わりません。しかし、池田市は20〜30年後には最終的に13万人都市を目指しているようです。池田市は阪急池田駅から梅田(大阪)へ急行で20分で行くことができますし、市北部には五月山山系を持ちます。そこではシカやタヌキ等の小動物やホタル(池田市内でも見ることができます)も見られます。池田市には今となっては貴重な自然が残り都市部へも近く、適度に自然と都市を行き来できます。ある意味ではユニークな町であると思います。
 個人的には、今後こういった特徴を生かし活性化されていくのかなぁと思ったりしています。また、大切なものは何か、自分で考え自分で行動できる町であって欲しいものです。最後は個人的意見になってしまいました。

 かつての山麓交易都市池田は、現在大阪への通勤者の住宅地として今も歴史を刻んでいます。

※写真をクリックして下さい→



写真:池田市茶臼山古墳

池田市茶臼山古墳


写真:御獅子塚古墳

豊中市御獅子塚古墳


写真:呉服神社

呉服神社


写真:旧西国街道

旧西国街道


画像:賑わう町(備前福岡)

賑わう町(備前福岡)


画像:片桐且元

片桐且元像


地図:江戸期の諸街道

江戸期の諸街道


画像:酒造りの様子

酒造りの様子


画像:江戸期の池田

江戸期の池田


写真:満願寺屋古写真

満願寺屋古写真


写真:1961年頃の池田駅前

1961年頃の池田駅前


写真:国道176号線

池田駅前の国道176号線


写真:ダイハツ本社

池田のダイハツ本社


写真:大阪(伊丹)空港

大阪(伊丹)空港


写真:ビッグハープ

ビッグハープ


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