池田中之島砦跡?
The remains of the Nakanoshima fort.
大阪府池田市にあったと噂の中之島砦跡については、記録も何もありません。ではなぜ中之島砦跡を取上げたかというと、今在家城跡、西市場城跡の事の聞き込みをしている時に、何人かの人から「中之島に砦か城があったと聞いている」とのお話しを聞いたからです。気になっていた事なので、現地で聞いてみる事にしました。
色々聞いてみたのですがやはり、どの方も知らないとの事でした。私は噂だけかなと、ふと思いましたが、1時間程の聞き込みだったので、今後ももう少し聞いてみるつもりです。お話しを聞いていると、中には貴重な話しがあり、現在の中之島(村)は明治18年の陸軍参謀本部陸地測量部製の古地図を見ても同じ位置にあるのですが、180年程(現在は2001年)前に北轟木村地との土地交換で村ごと現在の地に移ってきたとの事です。ですから、中之島と言ってももう少し拡大して考えてみる必要があるのかも知れません。
中之島村が元あった場所というのは、「あられのトヨス」の工場があるところらしいです。その裏に今でも墓地があるのですが、これが中之島村の墓地だったところだそうです。今は「四ヶ村墓地」となっていて、近隣の集落が共同で使っているようです。
それとなぜ移ってきたのかもお話しが聞けたのですが、水害対策のために土地の標高の高い所に移動したとの事でした。近くには箕面川が流れています。大平洋戦争前までは、やはり川がよく溢れたようです。
それで、今の中之島の様子ですが、写真のバス停左が今の中之島集落の中心があるところです。同じく右側には箕面川が流れています。また、その箕面川に注ぐ支流が何本も走っていて、戦国時代にはそういった施設があってもおかしくない感じもします。わき水も所々で出ていたとの事です。更に、西国街道も写真に写っている道路の一本左側(南)に走っています。
この写真のあたりから南へ行く程地形が高くなりますので、西国街道を見下ろし、水害にも備えた何かがあったと考えてもいいのではないかとさえ思い込んでいます。それから、今在家と西市場で聞いた話しでは、大体70才以上位の方から中之島の事を聞いていましたので、やはり今の位置にある中之島を言っているようですし、180年前に村が移って来たという超地域的な事は知らないと思います。
村が移ってきたあたりから(にも)中之島村にある正光寺がその中心のようで、このあたりが土地の一番高いところのようです。ここからはどちらに向いても下るばかりで、お話しが聞けた中でも、地形的な事や色々な事を考えれば、正光寺の辺りにそういうものがあったかも知れないなとの事でした。そしてこの寺は摂津では数少ない藩、麻田藩所縁の寺で今も遺物や逸話が残されています。
調査不足で公開するのは申しわけないのですが、逆にこの中之島砦跡について話しを聞いた事がある方もいらっしゃるかないという思い込みで、とりあえず紹介する事に致しました。もし、このページをご覧頂いている方で情報をお持ちの方は是非ともご一報下さい。宜しくお願いします。
▲ マップはC-4 ▲
|