見出し:池田城関係の図録
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写真:鉄砲鉄砲(火縄銃)
A Gun.

鉄砲(火縄銃)といえば、織田信長による「長篠の戦い」での組織的大量使用がよく知られています。しかし、実際に鉄砲が戦争で使われていたのは、それよりもずっと早かったようです。ただ、使用方法と概念が信長のそれとは少し違うようでした。
 畿内地域の様子を語る記録からは、1550年(天文19)2月15日に将軍義晴が京都の中尾城(現京都市左京区浄土寺大山町)を築城する際に、三重に堀を掘り、二重に壁をつけた中には石を入れて、鉄砲に備えたとしている事から、この頃には鉄砲の実戦使用が考えられています。
 同年7月14日の戦闘では鉄砲による初めての戦死者が出ています。将軍義晴・細川晴元方が使用したもので、対する細川氏綱方三好長慶家臣の与力が死亡しました。
 更に、1552年(天文21)12月7日には、本願寺証如教光が将軍義輝(義晴の長男)へ塩硝十斤を献上しています。
 また更に、時代を下ること1567年(永禄10)4月12日、はっきりと摂津池田家の記録が登場しています。この日、三好三人衆方池田筑後守勝正は、三好下野守とともに七〜八千の軍勢で、松永久秀を追って奈良へ侵入し、すぐに鉄砲戦となっています。この頃には、すでに摂津池田家にも相当数の鉄砲保有があったのだろうと推定しています。

 中世末期「長篠の戦い」以前、摂津池田家の鉄砲使用方法や戦略的な意味は定かではありませんが、篭城などの守備では、鉄砲が非常に大きな威力を発揮する事から、そういった鉄砲の利点を活かせる局面では盛んに使用されたと思われます。
 当時の鉄砲は、今のライフル銃のように筒内に螺旋を切って弾道を安定させる技術はありませんでしたので、特に遠距離での命中精度に問題がありました。また、最大飛距離400メートル(約22間)、有効殺傷距離約80メートル、装甲貫通距離30メートル程のようですので、その威力を発揮する条件を成立させるためには非常に精密な作戦が必要だったようです。
 しかし、弾丸がどこに飛んで来るかわかりませんし、生身の体であれば、220メートルの距離でも殺傷能力があったとされています。また、当たりどころによっては、生命維持に深刻な疵を受ける事でしょう。
 こういった新しい武器の黎明期に「長篠の戦い」が、その戦い方(概念構築と共に)において、画期と認識されているのでしょう。
 個人的には道具として、兵器としての鉄砲には大変興味を持っているのですが、今のところこういった見方をしています。
※写真は関ヶ原ウォーランドで撮影したもので、イメージ画像です。

<参考>
言継卿記4、本願寺日記、大阪府史、兵庫県史、戦国歴代細川氏の研究、日本城郭大系11、戦国合戦大事典6、戦国武家事典、足利義昭(人物叢書)、三好長慶(人物叢書)、明智光秀(人物叢書)、朝倉義景(人物叢書)、戦国三好一族など

2003年11月23日:記
2011年8月15日:編集


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