池田城域南端
The current situation of castle's facilities in the southern most part .
想定されている池田城域の南端の現在の様子です。写真でも見えますように5〜6メート程の小さな崖になっていて、この高さを利用して池田城域の南を守ったようです。ちなみにこの崖は、池田小学校の北側まで続いています。
ですからこの辺りには外廓施設が色々とあったようで、「穴織宮拾要記-本-」には、「(前略) 一、上月角■衛門屋敷建石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云る。(後)」記載がありまして、池田氏に関係する家老屋敷があったようです。この北側すぐには能勢街道もあり、重要な場所でもありました。(池田城域想定図)
聞いたお話しによると、確かに小さい頃は建石町(かみ酒店の西側附近)に家老屋敷があったと聞いていたとの事です。また、場所的にもこの辺りは侍屋敷や防備施設が設けられていただろうとの事でした。この崖を境に建石町は、三の丸と言われる所ですから、当然防備は厳重にされていたと思います。
また、その関係からか、少ないですが数回発掘調査が行われているようです。
1939年(昭和14)発行の池田町史にその家老の事が記載されていますので紹介しますと、「(前略)塔婆主(法園寺にあったようです。名は赤松氏、上月十大夫政重。)、上月政重は名門の出であって、父祖以来世々河邊郡荒蒔城に育ち、父子と共に華やかな生活にあこがれて居たが、夫れは槿花一朝の夢であった。彼は襁褓を捨てて三歳の時父子一族は三好、荒木両黨の為に殞され、彼は僅かに身を以て乳母の懐に抱かれ、畑村の親戚の家に落ち延び、悲惨な生活を始めねばならなかった事は、戦国の世とは謂へ、洵に一遍の哀史である。(後略)」とあります。
池田城の周辺には、まだ明らかになっていない事が沢山あるようで、これらをまとめると一地方の城とはいえ結構なボリュームが出てくるような気がしていますね。
▲ マップはB-イ ▲
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