摂津池田城の支城木部砦跡?
The remains of the Kibe fort in Ikeda city.
池田市の木部地区に「木部砦」があったと云われています。人物往来社から1967年に発行された『日本城郭全集9』には周囲100メートルばかりの高地がその跡だとされる伝承が掲載されています。その証拠に、高地は「城ヶ前」「土居」と呼ばれていたとか。また、天文年間(1532〜54)に池田氏が篭った所とも記されています。
また、1939年(昭和14)に発行された『池田市史』でも「木部保址」として、「北方にあり、今は田甫となり遺址の見るべきものはなし。城ケ前、或は土居と呼べる高地が在る、俚俗之を城地なりと伝へて居る。周圍凡壹丁ばかりの地である。」とあって、ほぼ前記の『城郭全集』と同じ内容になっています。
更に同市史には「城辺山」として、「木部の地は細郷谷(細河地域)の内に属し、古くは輪名抄の秦郷の内であった関係から地名も穴織、呉服の二神が絹を曝せしより絹延の里と呼び、木部と言ふのは、「きぬのべ」の略だと云われているが、是は在来の俗な説であって、木部の地名は正しく「城邊」より来た名である。(中略)「城邊山」なるものは、今の池田山の北に存する、木部村に其名を残し、山南の「意保呂野」といふのは、今の宇保町の其名を伝へていると見らるる。さればこの城邊山は今の五月山と見るべきもので、古くは池田山といわずして城邊山の名を以て呼んだものらしい。(後略)。」とあって、そのいわれが記載されています。また、この木部地区は早くから開けており、古墳も数基あります。
現地は、五月山が東から張り出して、猪名川を突くような形になっていて、通行は北からでも、南からでも、通り抜けるのに、このあたりで山が行く手を塞ぐようなカタチになります。
そのような地形であれば、戦国時代には当然、軍事施設があったろうと思います。今では開発が進んで上記の「高地」というのはわからなくなっていますが、臨戦体制の戦国時代では領域防衛のために、必要な策が講じられていたはずだと思います。
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